もし術理のプロセスを単純化した言葉で語るとすれば、それは「とらえ」と「はいり」になるのではないか。
「とらえ」とは、相手をとらえることであるが、それは自分が相手をとらえるというよりは、むしろ相手に自分をとらえさせるということが正しい表現である。
「とらえ」が生じるためには、意識の衝突であり、「気」のぶつかりがおこらなければならない。「意識の衝突」、「気のぶつかり」という言葉は抽象的であるため、それはどのようなものであるか、どのような状態をさすかを頭では理解できないだろう。
しかし、この「とらえ」と「はいり」を具体的に学べるようになっているのが型稽古である。
型の動きは、「とらえ」と「はいり」がワンセットになっている。
「とらえ」と「はいり」が、ワンセット、一組になっているからこそ術理が成立するのだ。「とらえ」だけでは術理は成立せず、相手をとらえた、その刹那に「はいり」なくてはならないのだ。
「とらえ」が意識の衝突であれば、「はいり」は、軸のずらしである。
ひとたびはいられてしまえば、つまり軸がづらされてしまえば、力をいれることはできなくなってしまう。いわゆるゼロ化、無力化である
この「とらえ」と「はいり」を型の稽古で学ぶのであるが、「とらえ」と「入り」が生じる時の動きは目に見える動きとはことなり、とても微細であるため、目ではわからない。師による一触がどうしても必要となる。
しかもこの動きは呼吸と一致しているため、動画や写真では到底しることはできない。
「とらえ」と「はいり」の抽象概念が具現化されているのが型の動きであり、呼吸との一致である。呼吸と一致した動きであるからこそ、相手をとらえた瞬間(相手にとらえさせた瞬間)に、その刹那に相手にはいることができ、術理が成立する。