術理を実現していくための型稽古は、まずは外形から始まる。
術理が体現できる人の型をひたすらまねる
ここで差がつくのが観察力である。
観察する力は個人差があるが、観察力がある人は観察しているときに自分の思考を消している。つまり考えていない。無心になってその対象を写し取っている。
この写し取る力が出てこない場合は、自分自身にこだわっている可能性がある。
一般の生活ではほとんど自分にこだわることが主であるため、自分を消すことはなかなか難しい。
型の動きを観察するときは、自分自身を前にださないようにしなければならない。つまり、解釈をしないということ。
解釈をしてしまうと、型を写し取ることができない。
身体は一つのスクリーンであるため、そのスクリーンに映すのが型を真似る意味
型を映せたら、次は初めて自分の身体の動きを感じてみる。関節に力がはいっていないか、筋肉が固くなっていないか・・など
特に首の筋肉、首の関節が固くなっている場合が多いので、そこに力をこめないように身体を動かしていく。
しばらくそのような型稽古をしていると、身体が連動していくことに気が付く。
背骨から力が手足に伝達できるようになってくる。
ここで注意しなければならないのは、背骨からの伝達が完成形ではない。
その先に答えはある。
各関節を連動して使えるような身体操作ができれば、技としてかかり始めるので、これが型稽古の成果であるという錯覚におちいる。
統一体という身体はその先にある。
連動によって動く身体操作を行わなくなった時、つまりその動きを忘れた時に、統一体という別の身体が誕生する。
それは自分の身体のありよう、どこを動かそうか、どのようなラインで力を伝達しようか、どのように手の向きを使おうか、そのような身体へのこだわりが全くなくなった状態のときに、統一体は出現するという。
つまり自分の身体から意識を解放した状態になること
この統一体になって初めて術理の入り口が体験できるようになる。
型稽古は最初はできる人の型を無心で真似る。
そして自分の身体を感じる
関節の連動ができはじめる
そして自分の型を忘れること、自分の身体を忘れること、関節の連動を忘れること
この忘れることによって統一体という目に見えない身体が誕生する