棒や木刀、トンファー、サイなどの武器を使って相手を崩す技術は、すべて「手の内」にあります。手の内とは、単に手を操作することではなく、手の内部感覚のことです。
しかし、それは手に力を込めることでもなく、手を構成する骨を操作することでもありません。もちろん、手の骨の意識は重要ですが、手の関節を使って相手を崩すことはなく、特に武器を持っている時にはそれは不可能です。 武器を持たずに相手の腕を直接触って崩す時には、手の関節を使うことができます。
しかし、棒や木刀を握っている場合、手の関節を使うと梃子(てこ)の原理が働き、支点ができてしまい、相手を崩すのが難しくなります。特に大きな力の差がない限りは、関節を使う方法では効果がありません。 武器術では、関節を巧みに使うのではなく、「手の内」の質感を一定に保つことが大切です。
そして、手にはエネルギーを通す必要があります。ただし、このエネルギーは筋力によるものではなく、手の内で生まれる律動的な振動のことです。これは「自然の作用によって生じるエネルギー」と言えます。
「自然の作用によるエネルギー」とは抽象的に聞こえるかもしれませんが、例えば、秋になるともみじの葉は赤く染まり、やがて地面に落ちます。桜の花も春に咲きますが、満開を過ぎると風に吹かれ、ひらひらと地面に落ちます。葉や花は、ただ重力で落ちているだけではなく、空気に触れながら揺らぎながら落ちています。
葉や花が枝から離れると、空気の抵抗に直接触れ、その抵抗が揺らぎを生み出します。この揺らぎはとても繊細な動きであり、同時に力でもあります。この繊細な揺らぎは、私たちの体、特に手の中にも存在しています。
例えば、手を上げて開いてしばらくすると、手は自然に閉じ始めます。これは手の構造がそうなっているからです。同様に、頭や腰も自然に前に倒れます。
つまり、人間の体も自然の摂理に従って、重力に引かれて地面に「落ちる」ようにできています。そして、閉じる、倒れる、落ちるといった自然な動きを、最小限の力で、自然な動きと調和するようにぎりぎり止めているときに、律動的な揺らぎが生じるのです。
武器術の「手の内」に戻ると、棒や木刀を使って相手を崩す際には、手の中に「揺らぎ」が生じています。手の中の「揺らぎ」や律動力は、手が自然に閉じようとする動きを止める際に生じる微細な振動です。これが武器を持った際の相手を崩すためのカギとなります。
木刀を手にした時点で、木刀は重力に従い、地面に向かって落ち始めています。この落ちる力を手の内で感じ、それを止めることが重要です。そのためには、手の繊細な感受性が必要です。この感受性とは、手が開いて閉じようとする自然な動きを感じ取るほどの繊細さを指します。
この繊細な感覚があるからこそ、武器で相手を崩すことが可能です。例えば、木刀を持って相手を崩す時、まず木刀が地面に向かって落ちていこうとする力を止める必要がありますが、その際の筋力は木刀の自然な力と調和していなければなりません。必要以上の筋力を使うと、「揺らぎ」が生まれず、相手を崩せません。むしろ相手と力でぶつかり合ってしまいます。
武器術には、この繊細な「手の内」が必要であり、それは自然の力を活用するからです。東洋哲学的に言えば、これは「陰陽」の象徴である太極図で表すことができます。手が閉じる(下降する)動きが「陰」であり、それを止める、もしくは開く(上昇する)動きが「陽」です。
実際にこの「陰陽」の象徴図を手の内部感覚に当てはめると、手の中で陰である白い丸と陽である黒い丸を感じることになります。簡単に言えば、手の内を太極図にすること、すなわち「閉じる」と「開く」という陰陽を手の内に同居させるということです。
言い換えれば、手の内を「ゼロ」にするということです。陰と陽という相反する力が完全に調和し、ゼロになった時に、もみじの葉が落ちる時、桜の花が舞う時に働いている自然力と同じ、あの微細な振動「揺らぎ」が生じるのです。そして、これが、相手を崩す根源的な「手の内」のエネルギーなのです。